ブルーオレンジ

日々の雑記

雑記

ふとやる気のない今日に唐突に文章でも書いてみるかという思いつきからぼそぼそとこの文章をスマホで打ち込み始めた。

春の陽気なんて感じられない6畳一間のこのワンルームで(窓からの隙間風が破滅的に寒い)、休みの日だというのに布団にくるまってiQOSで煙草を吸いながら、少しずつ少しずつカルテットをまた見直している。

何気ない話題が実はその人の深い部分を覗かせる文脈があったり、ズレているような会話が本質をついていたり、人のいじらしさとか醜さとか愚かさとか、普段の不寛容な社会にいたら取りこぼして一瞥もしないような関係性を丁寧に丁寧にこちらに伝えてくれる。

日々の生産性という意識したくもない概念から取りこぼしてしまった柔らかい何かをそっとまた懐に入れる作業みたいで、このドラマを見る度に少しだけ心が軽くなる。

わかりやすい人が人は好きなんじゃないか結局は、とか、(それは自分にとってという()がつくんだけど)
白黒つけないと情報が多い中でやっていけないとか、
そういう複雑さを嫌う日常生活を送っていると、自分の思考回路まで短絡的になっていく気がして精神が摩耗していく。

昔から母親になんでそんな私の子なのに暗いの?って言われるぐらいには明るくない人なんやけど、仕事でそれを出すと何もかもが進まないから大抵はそこに蓋をしてなんとか進んでいる、のはいいんだけど、
言ったみたいに心の擦り減りは止まらないから、時々こうして自分の淵の暗いところを眺めるというとめっちゃ厨ニ病だけど、眺める作業をしないと落ち着かない。

暗さや複雑さを忌避しているときっと人の深淵まで覗けない。

そりゃいつでも明るく元気でいられる人は凄いと思うし、みんな好きになるとも思う。ただもしそこを頑張って取り繕ってるんだなって人がいたら、そのしんどさをあの人は明るいよねって白黒つけた表層だけで判断するんじゃなく取り繕わないといけないぐらい、ある意味生きづらいんだなって慮りたい。

文章に脈絡が無いけど、雑記ってそういうもんだと思う。

あの人が忌避した自分を、あの子は分かっているという点でそこはどうしようもなく隔たりがあってしまうわけで。

暗いもの同士が一緒になって更に暗くなるかって言われたらそうじゃ無いんだと。
ぼそぼそと喋るわたしたちにはその明るくしなくて良い空間が逆に救いになってて、まぁわたし『たち』ってみなしてるけど、少なくともわたしにはそうで、

そういう複雑さとか暗さに対しての
あぁ社会はなんと生きづらいのかっていう
生きづらさを共有している誰かと出会うことは僥倖だなって今ドラマ見ててふと思った。